リトルガール、シンフォニー

 

この週末は病床に伏すということを久しぶりにした。ライトに体調を崩すということは頻繁にあるのだが、毛布にくるまってこの世の終わりを感じるくらいに体調を崩したのはかなり久しぶりだ。ただ基本的に打たれ弱い人間なので、比較的簡単にこの世の終わりを感じる。

弱っている時にSNSというものは更に体調を悪くさせ、何でもないポストもネガティブなスパイラルを巻き起こす。なのでポツポツ投稿はしても他は見ないようにした。何より明るいブルーライトも頭痛を誘発している気がしてならなかったし。

ああ、ご飯も食べたくない。何ならそんな思考も邪魔で、ただ時間が過ぎるのを待っている。しかしたまに来るこんな日が日々の喧騒によって我のアイデンティティから乖離した自分を元に戻してくれている気もするのだ。

 

 

行かない時は全く行かないのだが、最近撮影等々で下北沢へ行く機会が多い。
上の写真は今ではなくなってしまった踏切を思いながら、その場所で撮った写真だ。この踏切といえばエレカシの曲を思い出す。僕はこの曲のおかげで下北沢は虚勢を張って生きている男の子と、それに対してどこか切なげなそして刹那的な匂いの女の子の街という印象がある。あくまで想像、イメージの話。
一芸で花を咲かせようと思っている人間が最初に下北沢を目指すというのはある意味王道の動きである。特に僕の一回り上の世代くらいまではその考え方が顕著で、今をときめくミュージシャン・役者・作家・漫画家・芸人の方たちがたくさんいたようだ。それが下北沢たらしめる所以だろう。
先に書いた通り夢を持った人間が集まるということは、同志でありライバルが集まる場所。つまり戦場であり、しかしボヘミアン的な生活もある刹那的な街なのである。エコール・ド・パリのように一緒に夢を語り、しかし破れた者は去らなければいけない儚い街。
だから下北沢はこんなにも人を魅了する街なのだ。

僕の中で下北沢は少し抵抗のある街である。嫌な抵抗ということではなく、何というか心地いい反発。ただ安息の地という感じではない。ここが中央線沿線との違いのような気がする。中央線は良くも悪くも包み込む優しさがある。下北沢はやっぱり未だにどこかヒリヒリする憧れの街だ。

 

 

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